あるPTAの集まりで尋ねてみました。ほとんどのお母さんの手があがりましたが、実際は少し違うようです。テスト用紙を奪うように取ると、まずどこで3点引かれたかを探します。『ほらみなさい。お母さんがびっしり言いゆうろがね。できたと思うても、もう一度見直さんといかんゆうて。これがなかったら100点じゃった。あほうやねえ』
97点という、お母さんなどめったに取ったことのない良い点を取って帰っても、とうとう褒め言葉は出てきません。おまけに『○○ちゃんはどうぞね。100点じゃったろうがね。ほんでふだんからお母さんの言うことをちゃんと聞きよらないかなあね』と、かえってお小言までくう始末です。勢い込んで帰って来た子どもが、がっくり肩を落としてしまうのも無理はありません。こうして、親が子のやる気を奪ってしまいます。
登校拒否や家庭内暴力の子どもが増えて、小児科の医者まで相談に引っ張り出されるようになりました。そんな子のお母さんに何人も会っているうちに、共通した幾つかの特徴に気づきましたが、この百点主義もその1つです。これが教育の厳しさだ、ここで甘い顔をしては大変と、お母さんは硬い姿勢をとり続けます。
一方、子どもの方は、良い成績を取ったときでも、何か欠点を見つけられはしないかと、おどおどして自身がなく、他から見れば全く問題にならない小さいミスが気になって仕方がなくなってしまいます。ある時は、せっかくの努力を全く認めてもらえない無念さが、つもりつもって、ある日突然に爆発して、母親に暴力を振るってしまうということになったりするのです。
こんな話をすると、お母さんたちは、私は大丈夫というふうに笑って聞いていますが、実はこんな人は意外と多いのです。健康の面でも同じです。風邪の後で時々ゼロゼロとのどを鳴らすばかりに、1カ月もふろに入れてもらえなかったり、便が軟らかいからと、学校に上がるまでおかゆと卵ばかりだった子など、数え上げるといくらでもあります。この子にとっては病気ではないからと言っても、母親はなかなか聞き入れません。つまり、97点なのです。
ところが、お母さんを笑ってばかりはいられません。学校、幼稚園、保育所、どこにも百点主義者がいます。鍛錬が大切だというと、保育所の子ども全部を裸にして、乾布摩擦をしないと気のすまない保母さんがいます。風邪をひいている子もいれば、皮膚の弱い子もいて、いろいろの子どももいますから、全員すべて同じようにというのは無理な話です。
長野県に鍛錬で有名な保育所があります。それを承知の上で父母が子どもを入れている、そんな条件に恵まれた保育所の何年間かの行事記録のまとめを見ましたが、どの行事も百%でなかったことに、その保育所の成功の秘けつをみた思いがしました。
昨年起きた、ある学校のマラソン事故も、104人のうち完走できなかった11人を今一度やり直した際に起こっています。教育的な見地から行われたことでしょうが、97点でやめておけば、という悔いが残るような気がします。
家にいる孫なら朝まで辛抱させるような容態でも、よそからの預かりものとあっては放ってもおけません。どうしてこれくらいの症状で、と思う子が救急車に乗って連れ込まれます。いつもの、気心の分かった連中と違って、いろいろとトラブルが起こりやすく、気苦労の多い相手です。
手帳に写した番号だけで保険証の代わりになると思っているし、時間がかかるの、何のかのと文句が多くて、都会の医者は大変だなあと思うことがしばしばです。なかには、帰って後にわざわざ礼状をくれる人もいますが、明らかに向こうから持ってきた病気でも、田舎へ行ったばかりに病気になって、頼りない田舎医者に見せたが心配でならないと、はらの中で思っているのが、ありありとみえる人もいます。
こうして、田舎の医者の休みを散々に奪った連中が、潮の引くように帰ってゆくと、続いて被害者の群れが病院に押しかけてきます。都会の病気をうつされた内孫たちです。
今年はまだ、大都会にインフルエンザの大きな流行が無かったのは幸せですが、いろいろの感染症が置き土産に残されます。お客さまの病気で疲れてしまった家の人たちは、またかとうんざりし、様子は大体分かっているからなどと、お客さまの時ほど大事にしないので、うつされた方が重くなってしまうことは、よくあることです。
交通事情が良くなって、地方のローカル色が薄らいだといっても、感染症には土地土地の流れがあるのですが、この大勢の都会人の殴り込みで、田舎の静かなパターンが、かなり混乱させられてしまい、時には、これに学校の始業が重なって、インフルエンザの流行が始まったりしたことがあります。
しかし、こんな嫌なことばかりではありません。田舎の医者には楽しみもあります。それは、小さな時によく診ていた子が、母親として子どもを連れて来た時です。診察の時のちょっとしたしぐさや、子どものあやし方やしかり方に、ひと昔前のその子の母親の姿を思い出し、その似ていることに感じ入ったりします。
似るといえば、子どもの病気のパターンもよく似ています。いつもこんなになってしまって、と嘆く母親に、あんたもこんなふうだったんだよ、と懐かしい昔話に花が咲いたりします。都会人種になっていても、体質や癖が分かっているだけに、診療がスムーズに運びます。
今一つ、毎年ひそかに興味を持っているのは、医療や子育てのファッションの変化です。旅行先ということもありましょうが、今年は紙おむつが大変多かったし、座薬をやたらと使う人がぐっと減ったようです。下痢の治療食なども考え方が変わってきているように思いました。医学雑誌に載っているような話題を聞いてくる母親もいて、育児や病気についての知識のレベルがかなり高いなと感じさせられる人が何人かいました。それが、病院のパンフレットや、医師の説明で得た知識だと聞くと、天下泰平な田舎の医者は、反省させられることしきりです。
早速何人かに、走ろう会の会長として感想を求められました。けなげな彼女の大奮闘に拍手をおくるのにやぶさかではありませんが、健康マラソンという立場からみると、手放しで褒めてばかりはいられない思いがします。
最近のジョギングブームで、朝早くから子どもをつれて走っている姿をよくみかけます。こうして親子が一緒に運動することは、心のつながりの面でも大変良いことですが、こんなジョギングでも、幼児では気をつけなくてはいけないことが、いくつかあるのです。
幼児を運動させるには、次のような大切な原則があります。まず、その子の発達段階に応じたものであること、無理のないところから始めて、ゆっくり程度をたかめてゆくこと、長く続けて習慣化すること、特に大切なのは、子どもが興味を持って、喜んで参加するものであることです。
幼児は骨や関節、筋肉などが、まだ発育の途中であることを忘れてはなりません。その正しい発育を助けるために運動をさせるのであって、出来上がってしまったものを強めるためではないのです。そのためには、全身を使っての運動で、一部に無理をしいないものであることが必要です。
将来、オリンピックやプロの選手になれるようにと、小さい時からボールを投げさせたり、跳ばせたり、身体の一部について、ある特定の能力を上げるような訓練をしても、効果は上がらないだけでなく、かえって悪い結果が出てしまいます。また、疲れてしまった子どもを励まして、運動を続けさせることは、幼児では決してやってはいけないことです。
幼児は疲労を前もって計算したり、力をセーブしたりできませんから、疲れが突然きて、しかも、かなりひどくなってから訴えるのです。この年代では、目的にあった動作を、いかにスムーズにできるようにするかという、いわば運動神経の訓練が効果的で、筋肉を強めようとしても効果は上がらない時期です。
筋肉強化のトレーニングを始めるのは、小学校の高学年から、ということになっています。日によってコースを変えたり、走るだけでなく、いろいろの遊びの要素をつけ加えて、楽しみながら無理のない距離を走らせましょう。走ったり歩いたりが良いので、走り続けることを強要してはいけません。
子どもの運動不足が大きな問題となっている今日、小さい時から積極的に運動に親しませることが大切なのは、いうまでもありませんが、その目的は、体力をつけるということより、子どもに運動の楽しさを体験させ、運動が好きになるようにしむけることです。無理な訓練をさせて、体力や根性をつくろうとすると、結果的には運動嫌いをつくり上げてしまいかねません。
こんなチビっ子スターの出現に刺激されて、家庭や保育所で、幼児に無理な距離を走らせたりすることが起こらなければ良いがと願っています。この子のしたこと自体は、素晴らしいことですが、それがどの子にもあてはまる、健康な、望ましいことだとは思わないからです。
近ごろ、子どもの診察に父親がついてくるケースが増えました。今まで母親を相手にし慣れてきたせいで、父親がついてくると勝手が違って戸惑っていたのが、だんだん違和感を感じなくなってきました。それはどうも、父親がついてくるのに慣れたからだけではないように思います。
もとは、父親がついてくるのは、母親が病気だとか、何か特別の理由があってのことで、いわばピンチヒッターとして登場していたので、病状を尋ねてもろくに知らなかったりして困りました。近ごろは父親でも母親でも、病状についての訴えにあまり差がなくなってきました。これは父親のレベルが上がったこともありますが、育児はほとんど他人任せで、自分の子のことをあまり知らない母親が増えてきたのも事実です。お腹が痛いという子の便について聞くと、2、3歳の子に『どんなウンチだったの』と聞いてみたり、便のことは何も言ってなかったから悪くないと思う、くらいの返事が返ってくるのはよくあることです。
しかし、子どもの病気についての知識は、まだまだ母親の方が上ですから、病気の説明をしても、簡単にうなずいて帰る父親がどれだけ分かっているのか、心配になったりします。ところが、これも逆転現象が時々みられて、子どもの食事療法について話しても、さっぱり要領を得なくて、病人食を売っている店はないかと聞く母親までいる半面、なにやかや料理の細かいことまで質問してくる父親がいて、驚いたりしています。
しかし、父親が母親とあまり違わなくなったと痛切に思うのは、子どもに対する態度です。例えば、注射をしても、泣き叫ぶ子どもをしかりつけ、きちんと押さえつけて、協力してくれるのが父親でした。ところが今では、母親よりうろたえて、泣いてかわいそうだからやめてくれないかと哀願したり、何か買ってやるからと子どもの機嫌をとる父親が多くなってきたのです。
病状が急変したり、重大な病気がみつかったりした時など、もとは父親を呼んで話すのが常でしたが今は、大変取り乱したり、興奮して前後が分からなくなってしまう父親が増えて、母親の方がずっとしっかりしていたり、祖父母に話すよりほかなかったりします。
父親の権威が低下したとよく言われます。民主主義的な考え方で家長の座から引きずり降ろされ、働く姿が子どもの目の届かぬところになったなど、社会的な変化が主な要因として指摘されています。実は父親自体の変化の方が、もっと大きな要因ではないかと思います。
一番目立つのは、父親の母親化です。育児に大切なのは、父親と母親がいるということで、母親とその代理あるいはヘルパーがいるだけでは困るのです。父親は社会的、道徳的に毅然とした判断を下したり、事態を冷静に受け止め、大局的、長期的な展望を持つことなど、母親とは違った面で育児に貢献しなければいけないのです。
最近、家庭教育における父親の大切さが改めて認識され、育児のための父親教室が開かれたりしています。しかし、それがおむつの替え方や、ミルクの作り方を勉強する会であっては、本来の趣旨とは全く違うものではないかと思うのです。
インスタントラーメンを食べすぎると、子どもの落ち着きがなくなる。ある家庭教育の集まりで、こんな発言がありました。その先生の受け持った子で、ラーメンをたくさん食べている子は例外なく落ち着きがなかった、というのです。同じような発言を別の会でも聞いた記憶があります。
アルコールのように、脳に直接影響を与えるものは別として、こんな食べ物の偏りをすぐ性格と結びつけてしまうのは、あまりにも短絡的で、私は賛成出来ません。それよりも、そんな食品をたくさん食べさせる生活環境で育っていることの方が、もっと関係が深いと考えるのです。しかし、こんな話が出るほど、インスタントラーメンは今の子どもの代表的な食べ物として関心を持たれていますので、その問題点を整理してみたいと思います。
主な問題点は3つです。第一は栄養的な偏りです。主成分はほとんどが「でんぷん」で、カロリーは多いのですが、タンパク質は少量、ビタミンやミネラルはゼロに近く、そのうえに食塩が多すぎるのです。しかし、この欠点は、そのまま子どもに食べさせずに母親が少し手を足すことで補うことができます。卵や肉、カマボコなどのタンパク質と野菜を加え、食塩を多く含んでいるスープの量を半分に減してしまうのです。それに野菜サラダや果物を添えてやれば、栄養的にはぐっと改善されます。
第2の問題点は食品添加物が多いことです。科学技術庁の調査によると、私たちが毎日食べる食品の中には、30から50種類もの添加物が入っているそうです。もちろん国は基準を設けて、無害なものしか認めないことにしています。しかし、一つ一つは害が少なくても、これほどたくさんのものが子どもの身体に入ってくることは、決して望ましいことではありません。出来上がった食品から添加物を抜くことはできませんので、添加物の多いものを避けることと、同じものばかりとらず、食品の種類を多くして、危険の分散をはかることが大切だとされています。少なくとも一日20種類以上の食品をとることがすすめられています。
第3の問題点は、子どもの手で簡単に作られるために、好き勝手な時に食べられて、食生活のけじめやリズムが壊されることです。3食をきちんととる子どもの数が減って、ラーメンやハンバーガー、ホットドッグのような準食事的間食が3度の食事の代行となり、いつが食事か、いつが間食か分からない状態となってしまって、時間におかまいなく、食べたくなれば勝手に、だらだらと食べるという食生活のパターンこそ、一番問題にしなくてはならないものです。基本的な生活習慣である食事の乱れは、やがて生活そのもののリズムを乱し、身体的にも精神的にも、悪い影響を受けることは明らかです。
食品についての関心が高くなり、いろいろな会合でホットな議論が行われています。しかし、その多くは加工食品の功罪や、食品添加物についてで、なぜか一番大切な食生活のリズムのことはあまり語られず、むしろやむを得ないことのように受けとられている空気を感じるのは残念です。
あの手この手で、私たちの食卓に入り込んでくる加工食品や添加物を選別し、排除することは、一人の母親がいくら決心をしても、大変困難なことです。しかし、家庭の食生活のリズムを守ることは、母親の決心次第でもっともっと改善できることではないでしょうか。もっとお母さん方が真剣に話し合って、崩壊しかけた子どもの食生活を立て直してもらいたいものです。
断片的な言葉のやりとりしかしない人たちを、単語族とか3語族とかいうそうですが、そんな語族の家庭で、一番の被害者は子どもです。そんな環境では子どもの言葉が、うまく育たないのです。
言葉の訓練法の本を買って、いろいろやったがどうもうまくゆかなくて、と相談にきたお母さんと話していて、お母さん自体の会話がおかしいことに気づくことが時々あります。問題は、話のさせ方などのテクニックではなくて、言葉や会話そのものの基本が出来ていないことなのです。
赤ちゃんが言葉を出し始めるには、たくさんの言葉が頭の中に蓄えられることが、まず必要です。何も分からなくても、赤ちゃんに話しかけ、意味はなくても、赤ちゃんの語りかけに答えてやることが、とても大切です。幼児は、周囲の人たちの会話をまねて話し始め、相手になってもらうことで、急速に進歩します。そのお手本であるお母さんが、いつも電報みたいな、断片的な言葉ばかりを子どもに聞かせていて、子どもにちゃんとした会話をせよというのは、全く無理な話です。
親子の結びつきを強めるために、親子の対話が協調されています。ところが、いざやろうとすると、これがなかなかうまくゆかないのです。対話を成功させるには、次の3つが大切です。
第一に、家庭の中の会話をもっと豊富にすることです。家族の間に、楽しい会話が多く交わされていれば、子どもはひとりでに皆の中に入って話そうとします。
第2に、お互いが面白く話し合える共通の話題を持つことです。それには、子どもがよく見るテレビ番組や漫画をみたり、スポーツに関心を持ったりする努力が必要です。
第3に、親の辛抱が一番大切です。子どもが、くだらぬ話を、ごたごたと並べても、しばらく黙ってきいてやる辛抱です。『もうそんな話はえいわね。そんなことより、学校で何を習うたぞね』などと、すぐ親が子どもの話を取り上げてしまっていると、もう子どもは親と話さなくなり、一番ききたいことが、一番聞けなくなってしまいます。
親子の対話の練習に、口答えの時期は特に大切です。小学校に入るころになると、今まで、主に行動でしか示せなかった自分の気持ちを、言葉で表現しようとして、何かというと口答えをし始めます。『親の言うことは黙って聞きや』などと大声を出さずに、お母さんも負けずに、口で対抗してみてはいかがですか。他人に分かるように話すことが、どんなに難しいことかがよく分かり、お母さんにとっても、良い会話の訓練になることでしょう。その上に、子どもが、もう親の言う通りにはならないので、自分の考えを主張する他人になったのだ、という大変大事なことが、よく認識できると思います。
今年になって子どもの自殺が増え、つい先日、横浜で小学5年の男の子が飛び降り自殺をしたと思ったら、こんどは川崎の6年の女の子が、やはり飛び降り自殺をはかりました。実は、このニュースを『やはり』という感じで聞きました。というのは、自殺は伝染するので、危ないなと思ったばかりだったからです。子どもの自殺をマスコミが大きく報道し、多くの人が話題にすると、かえって自殺をあおり、方法を教えてしまうおそれがあります。10年くらい前にも、名古屋で飛び降り自殺があった後、同じような自殺が増えたことがあります。飛び降りという男性的で、女性には珍しいやり方で、小学6年の女の子が自殺をはかったということは、前の事件の影響を否定出来ないと思います。
自殺者の全体の数は、30年前と比べると半分くらいに減っているのに、老人と子どもの自殺は増えています。子どもの自殺は大変ショッキングな事件ですので、マスコミも大きく報道して、『ともだちにいじめられて』とか『先生にしかられて』とか、直接的な動機ばかり問題にしますが、実際はその奥に準備状態という、一触即発の状態が出来ていて、そこにある動機が加わって、それが引き金になって自殺が行われると考えられています。その準備状態が大きく作られていると、ごく小さな引き金でも自殺が起こるのです。横浜の例でも、死なねばならぬほど強くしかられたわけでもないのに、ちょうど引き金になってしまったようにみえ、『教師のいじめ』が生徒を追いつめた、とまで言われるのは少し酷だと思います。
しかし、今年の例を報道でみる限りでは、先生方の対応の仕方に、今一つ足りないところがあるように思います。
自殺の防止には、その準備状態の解消がまず第一ですが、それには、そんな状態に落ちいている子を早く発見しなければなりません。
そこで大切なのは、自殺者の75%が出している、予告兆候といわれるサインを見つけることです。これは@『死にたい』と直接訴えたり、『遠くへ行く』などとほのめかしたりする、Aノートや紙切れに、えん世的な言葉や、どうしてよいか分からない、などと書く、Bいらいらして気分が不安定で、たいしたことでもないのに泣いたり、しょげこんだりする、C学校を無断で休む、D人に会いたがらない、E食欲がなく、やせてくる、F知人に改めてあいさつをしたり、プレゼントを送ったりする、などがあげられています。
最近の実例でも、やはりそれぞれサインを出しているのですが、それが先生に自殺と結びつくほどの大事だと思ってもらえなかったことが、この子らの不幸でした。人は大抵一回か2回かは、自殺したい気持ちになるのですが、相談相手になってくれ、励ましたり、理解してくれる親や先生、友人がいるので助けられています。ところが、相談相手がなかったり、放っておかれると、その思いはだんだんと大きくなってゆきます。
もちろん、このようなサインが、すべて自殺に結びつくものではありません。しかし、自殺は特定の人が特定の状況で起こすものではなく、誰でも状況によっては起こし得ることを忘れてはなりません。まさかこの子が、と軽く考えることが重大な結末につながります。
自殺者は死にたい心と、助かりたい心の2つを持っているといわれます。また、自殺の異常心理は長続きしないものです。その時、一人にされるか、相談相手があるかが、その子の自殺決行に至るかどうかの境目になることを思うと、日ごろ、子どもとの間に温かくて信頼のある人間関係をつくっておいて、いつでも相談できるようにしておくことが、一番大切なことだと思います。
先夜、出張先の東京に電話がありました。知人の1歳の子どもが、マッチの棒を飲み込んだが心配ないか、というのです。私も子どものころに、マッチの棒の頭や、箱のすり板には毒がついているので、なめたりしたら大変だとおどされたのを思い出し、さぞかし心配したことだろうと同情しました。しかし、この答えは『無害』です。マッチ棒は、大人が一度に100本以上食べると危険で、1歳児でも20本までは丈夫なのです。ついでに、すり板の方も無害です。
医学の進歩につれて、子どもの病死は大変減りましたが、事故による死亡が減らないので、2十歳未満の年代では、事故死が死因のトップです。自動車事故、墜落、でき死が主なものですが、死ぬほどでない事故としては、転倒、やけどの他に、薬物中毒が非常に多いのです。
この場合の薬物というのは『薬』だけでなくて、日常身の回りにある種々の化学製品や、たばこ、アルコールのような大人の嗜好品も含まれています。多い順で、たばこ、薬、洗剤、ナフタリン、殺虫剤、水銀、化粧品、マッチ、石油、文房具などです。年齢では1歳、2歳、零歳の順で、3歳になるとぐっと減ります。
ごく身近なものだけ紹介しますと、たばこは危険ですが、幸いほとんどの例が吐き出すので助かります。灰皿のあく汁を飲むと危険です。灰は無害です。洗剤は、家庭用のものはふつう無症状で、大量に飲むと下痢します。化粧品はマニキュア除光液など毒性の多いものから、無害なものまで製品によりまちまちです。
文房具では、インクはブルーと黒は、幼児が一瓶飲んでも無害、赤は有害です。ボールペンのインク、クレヨン、鉛筆、チョーク、インク消し、は無害でクレパスは赤だけが有害。絵の具は専門家の使うものには危険なものがありますが、普通のものはまず心配無用。その他では、蚊取り線香は幼児が線香2本、またはマット30枚を食べても無害。歯みがき、ロウソクともにごく大量でなければ無害。体温計は水銀が入っていますが、飲み込んでも腸から吸収されないので無害ですし、コインを飲み込んでも害はありません。
このように、身の回りのものは大部分心配のないものですが、一番危ないのが『薬』です。ところが、その中毒が増えています。老人が飲みやすいように、錠剤が小さくなったこと、子どもの薬が飲みやすくなったことも原因ですが、最大の原因は『薬』が昔のように貴重品でなくなり、扱いや保管がぞんざいになり、幼児が簡単に口にしやすくなったことです。『薬』は薬であるとともに、毒物でもあるわけですから、ぜひきちんとした管理をしていただきたいと思います。
今回、私が一番言いたいのは、わざわざ東京まで電話しなければいけなかった点です。アメリカでは、化粧品をはじめ数々の商品を、その毒性によって6つに分類して、一見して分かるようなリストを持ち合わさなくても、各州には中毒センターがあって、電話をすればすぐその毒性や処理法を教えてくれるようになっています。
日本にも、各地にぼつぼつできはじめましたが、残念ながら本県にはまだありません。県の救急情報センターにでも、そんな機能があれば、一般家庭はもとより、医師にとっても大変ありがたいのだがと思います。
妊娠末期に、スピーカーを妊婦のおなかに向けて、ある俳句を125回も聞かせておいて、出生後1週間して、その赤ちゃんに同じ俳句を聞かせると、別の俳句や、同じ長さの他の言葉を話しかけるのとは、明らかに違う反応が赤ちゃんの心電図に現れた、という興味ある実験成績が学会で発表されました。
ペンギンが出産前にしきりに大声で鳴いて、その声を胎児に覚えさせ、生後の親子の識別が鳴き声によっていることは、前から知られています。人間の胎児の耳も聞こえるのではないか、という考えは早くから持たれていました。胎児の耳が聞こえたら、いつも聞いていただろうと思われる音を録音して、新生児に聞かせたら、ぐずついていたのが良く眠ったという実験もあります。
こうなると、妊婦によい音楽を聞かせるということも、単に母親の情緒を安定させるというだけの効果ではなく、音楽そのものが胎児に影響を与えることも考えられるのです。
最近の光学技術の進歩で、従来は全くなぞの世界であった胎児の動きを、映像でとらえることが出来るようになり、20何週目の胎児が指を吸っている姿などが写し出されて、強い感動を与えています。母親がアルコールを飲んだり、悲しい気分になると、胎児の動きが少なくなり、母親がうれしい、気持ちの良い状態であると、胎児が長い間よく動くということも見られて、胎教が科学的な目で、改めて考えられる時代になりました。
このように、観察の方法が進むにつれて、新生児についても、驚くべきことが次々と分かってきました。生後間もない乳児でも、母親の声を聞き分けて、母親の語りかけに同調して手足を動かしていますし、見えないと思われていた目も、ちゃんと母親の目を見つめているなど、特に、感覚器の面ではその発達が従来の考えよりはるかに早いことが注目されています。そこで、この感覚系を通じての母子の結びつき、特に出生早期の母子の接触や相互作用の重大性が協調されています。
一方、こんな新生児の感覚情報は甚だ不完全なものなので、新生児に過大な期待を寄せるのは誤りだという学者もいます。例えば、新生児を水につけると泳ぐ動作をするとか、顔のすぐ前で母親が口を開けると、新生児も口を動かすとか、種々の反応動作をするが、日がたつにつれていずれも反応が鈍くなって、次第に出なくなる。これが後になって再び現れてくる同種の動作とは同一のものとは考えにくい、これは人類の祖先が進化の過程で獲得した行動が反射的に出たにすぎない、といのうです。
まだいろいろ分かりかけたばかりですから、結論は今後の研究に待つとしても、新生児のこんな行動をすべて反射的なものと片づけるわけにはゆかないように思います。
こうして、胎児や新生児の能力が新しい目で見直されるとともに、子どもの発達そのものについても、改めて考え直されています。大脳生理学や心理学のめざましい進歩は、子どもの能力や、その発達の仕方について、胎児や新生児と同じように、きっと驚くような事実を明らかにしてくれると思います。
こうして、子どもの能力の発達が大変早くから始まり、しかも、レベルが予想以上に高いことが分かったことは重大です。育児の基本は、子どもの持つこの素晴らしい能力を十分に伸ばすことで、そのためには、大人はもっと謙虚な心で、子どもの能力を正しく評価しなければいけないと思います。